善か悪か真か偽か白か黒か糾弾か擁護か…って、ほんとに二択しかないんでしょうか。物事ってそんなに単純なのでしょうか。といつも思ってしまう。
二元論って、物事を「わかりやすく」するための例え話のようなものでしかないと思っていまして(「世界を二分したら俺は圧倒的にディカプリオ似」とか)。それを日々直面する全ての事象に適用してしまうのはすごく味気ないし危険なことかもしれないなあと思ったりもしていまして。ていうか、無理。全部に適用するのは無理じゃんそもそも(気を許してついタメ口)。だって、いざ自分自身のことになればみんなそんなに割り切って話できないと思うんだけれども。自分にしか分からない自分の心の襞みたいなものがあるわけで。なのになぜか自分以外の第三者や身の回り「以外」の出来事に言及する時に善悪二元論みたいなものが首をもたげてくるっていう。
その「二項」の間に「考え中」とか「迷い中」があってもいいじゃないって思う。ていうか、あるべき。いや、もちろんあることはあるのだが、そういう曖昧なものは「わかりやすくない」ので表層に出にくい(議論として弱い)のであり、出たら出たで「曖昧なもの」として「糾弾」の憂き目にあったり「なきものにされたり」するという仕組みなのでR。
わかりやすくて、「いいね!」なのはいつも、残念ながら「白か黒か」の論理だったりしてそれがなんかやるせない。
やるせません。YARUSEMASEN。
余談だが、いま「やるせません」と書いていて「笑ゥせぇるすまん」に空目した。
商売でも表現活動でも、よく「売りを一言で言うと?」とか、「もっとわかりやすく」とか言われるじゃん(無意識にタメ口)。そういうとき、なんだかはらわたがちぢこまる気分になる。怒りとは違うのだが、なんだかはらわたがちぢこまる気分。もっというとなんか得体のしれない暴力的なものに直面してしまったような気分。「仕事と私、どっちが大事なの!?」と問われた時のような。問われたことないけど。そんな気分になっている時点で私は「(何かに)失格」なのだろう。
Count me out.
ほなね。
参考文献
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