2014年6月5日木曜日

映画:アクト・オブ・キリング

~前回までのあらすじ~
小学5年生の水島少年は父親がレンタルで借りてきた『ゆきゆきて神軍』をなんとなく流れで一緒に見てしまい、トラウマを抱えることになるが…!

こんにちは!!!涙

シアター・イメージフォーラムで見てきました。(『ゆきゆきて神軍』ではなく)

<激短!あらすじ諸島>
60年代にインドネシアで起きた共産主義者大量虐殺の「加害者」たちに、当時の殺戮行為を再現した映画を作らせ、その制作の過程をフィルムに収めた世にも恐ろしいドキュメンタリー。

まずインドネシアでこのような事件があったこと自体知らなかった。

一説によると犠牲者は100万人以上にも及んだそうです。そしてさらに驚くのはインドネシアでは今でも反共が国是とされており、この大量虐殺が正当化されているということ。そしてこの虐殺に加担した人たちは何の罪にも問われずいまも生きていて、さらには「国民的英雄」扱いすらされているということ。


・・・心が歪んでいる私としては、まずこの前提に「ミスリーディング」があるんじゃないかな?と思ってしまいました。というか、あってほしいと思ってしまいました。

というのも、インドネシアの国民がこんなに悲惨な大量殺戮の加害者を心の底から英雄として称えている、なんてこと、到底信じられないからです。 表向きは諂っていても、心の中では舌を出しているに決まってます。しかもインドネシアと一言に言っても、ものすごくたくさんの島で構成されている国ですし、地域差もかなりあると思います。「国民的英雄」という触れ込みがどこまで正しいかわかったものじゃないです。

・・・と、こんな甘ったれた思いを抱かずにはいられないほど、この(カッコつきの)「事実」は、僕にとって受け入れがたいものでした。ゆえに、僕はこの映画を「性善フィルター」(人は生まれながらにして善きものである)をかけて見ることになってしまいました。ショックを未然に防ぐ自衛本能でしょうか…。

するとやはり加害グループ「パンチャシラ青年団」の前で、一般人はどこか怯えた表情をしていて(その表情は完全にチンピラに絡まれたときのそれです)、これが彼らを「英雄視」するまなざしと言えるのか甚だ疑問に思いました。

そしてもちろん、この映画の主人公アンワルさんをはじめとする「大量殺戮を行った側」の人物からは、自分たちの罪に最初から気付いているような表情や発言をすくい取ることができます。自責の念に苛まれながら虚勢を張っているというしんどさ…。
この加害者たちはひょっとしてインドネシアで「国民的英雄」ではなく、「裸の王様」のように扱われているんじゃないか?とすら思いました。

フィルターをかけて見てしまったので「見たいものしか見ていない」と言われればそれまでですが、この一般の人々の「怯え」や加害者の「自責の念」こそ、このドキュメンタリーが捉えた多面体の一面であることは確かだと思います。(事実はもっともっと多面的なのだろうけど)
しかし、この「性善フィルター」のおかげで、ラストの展開にあまり意外性を感じなくなってしまったのは惜しいところです。(馬鹿)

あるシーンがとても印象に残っています。

とある地方で議員選挙に立候補した「パンチャシラ青年団」所属の男が選挙活動で挨拶まわりをするんですが、市民たちはその男に「平然と」賄賂をねだるのです。十分な賄賂を持たないその男は結局落選してしまいます。
このシーン、映画の中ではわりと「笑える」箇所として機能していたようですが、この地域の「腐敗感」を少なからず感じてなんだかすごくダークな気持ちになりました。

共産主義を排除しておきながら、だからといって民主的でもなく、地域に根差したプリミティブな秩序があるのみ。これは中東の民主化運動が軒並み壁にぶつかっているのにも通じる難しい問題です。人は「慣れ親しんだ環境」という「慣性」を失いたくないものなのだなーと思って、本筋とは別の部分で絶望的になりました。(まあそれを一言で「腐敗」と言うのも語弊があるとは思うんですが)

「善悪の区別がつかなくなる」とはよく言うけれど、そもそも善と悪とはそこまできれいさっぱり切り離せるものではなく、善悪どちらにもどちらかの要素がしみ出しているからこそ厄介。
さらに「善悪」とは別の地平に「慣性」というパラメーターの存在が。個人レベルの問題が政治性を帯びて集団の論理になったとき、さらに問題は複雑化して…。

しんどいわ。人間。

では!



2014年3月28日金曜日

映画:ザ・ロイヤル・テネンバウムズ

Huluで観賞。
ウェス・アンダーソン監督作品。

Huluの無料お試し期間が終わり、課金がはじまっているので、何か見なきゃもったいなかったので見ました。(最低な態度)

~激短!あらすじ家族~
「放蕩親父」ロイヤルが、おちぶれたテネンバウム家の再生を企てるが…。

なんかオシャレでした。

ウェス・アンダーソンの絡んだ映画は、いままで彼が制作に携わった『イカとクジラ』(ノア・バームバック監督)くらいしか見たことがありませんでした。『イカとクジラ』は「崩壊寸前の家族や夫婦」を描いているという点ではこの『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』とある種共通したテーマを持つ作品で、個人的にはかなり好きな作品です。オススメ。

で『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』。父ロイヤルは奔放な性格で家族とともに過ごす時間がほとんどない。天才劇作家、天才ビジネスマン、天才テニスプレーヤーとして若くして成功した3人の子供たちも今や落ちぶれてしまっていて、さえない日々。母には別の男性とのロマンスが。そんな感じで一家は離散状態になってしまっている、ってことになってるのですが、その親父の放蕩っぷりや、子供3人の落ちぶれっぷりがそんなに「酷すぎない」というかポップでオシャレに描かれているもんだから、あんまりリアルに感じられなかったです。

一家がバラバラになっているのも子供たちがそれぞれ好きなことをやっていった結果みたいにしか思えなかった。それを「再生」すると言われましてもみたいな。

音楽の使い方は素晴らしくて、絵作りも計算されている感じがして、アーティスティックだねスタイリッシュだねという感じだったのですが、どうにもお話にエモーションが足りなくて、のめり込めませんでした。すみません。どうしよう結果的にほめてない!

公開当時(2002年だそうです)結構話題になってたし評価も高かった気がするんだけどなあー。

養女(とされている?←ここ、なんかグレーじゃなかったです?)マーゴ(グィネス・パルトロウ)と二男リッチー(ルーク・ウィルソン←オーウェン・ウィルソンの弟)のエピソードは良かったと思いました。

ひとつ言えるとするなら「才能みたいな“元から備わったもの”で物事をうまく回していけるのはある時期まで」みたいなことは感じました。だから努力が必要だし、変化を受け入れ、折り合いをつけ、前に進んでいくことが大切なんですね。何事も。

うーんなんというか…、僕、こっちより『イカとクジラ』の方が好きです。比べるもんでもないと思うんですが。『イカとクジラ』の方が「寂しさ」や「妬み」などといったどうにもやっかいな心の問題を、抑制のきいた演出で鋭く描きだしていて、痛くて切なくて面白いです。

『イカとクジラ』おすすめです!

では!(なんだこれ)



2014年3月13日木曜日

ブラックオアホワイト

 何か世間を騒がすようなニュースが報じられると、「~は悪い」とか「~は悪くない」とか、「“どちらか片方”についた意見」が飛び交うじゃん。(のっけからタメ口)  
 善か悪か真か偽か白か黒か糾弾か擁護か…って、ほんとに二択しかないんでしょうか。物事ってそんなに単純なのでしょうか。といつも思ってしまう。  
 二元論って、物事を「わかりやすく」するための例え話のようなものでしかないと思っていまして(「世界を二分したら俺は圧倒的にディカプリオ似」とか)。それを日々直面する全ての事象に適用してしまうのはすごく味気ないし危険なことかもしれないなあと思ったりもしていまして。ていうか、無理。全部に適用するのは無理じゃんそもそも(気を許してついタメ口)。だって、いざ自分自身のことになればみんなそんなに割り切って話できないと思うんだけれども。自分にしか分からない自分の心の襞みたいなものがあるわけで。なのになぜか自分以外の第三者や身の回り「以外」の出来事に言及する時に善悪二元論みたいなものが首をもたげてくるっていう。
 その「二項」の間に「考え中」とか「迷い中」があってもいいじゃないって思う。ていうか、あるべき。いや、もちろんあることはあるのだが、そういう曖昧なものは「わかりやすくない」ので表層に出にくい(議論として弱い)のであり、出たら出たで「曖昧なもの」として「糾弾」の憂き目にあったり「なきものにされたり」するという仕組みなのでR。
  わかりやすくて、「いいね!」なのはいつも、残念ながら「白か黒か」の論理だったりしてそれがなんかやるせない。  
 
 やるせません。YARUSEMASEN。  

 余談だが、いま「やるせません」と書いていて「笑ゥせぇるすまん」に空目した。
 商売でも表現活動でも、よく「売りを一言で言うと?」とか、「もっとわかりやすく」とか言われるじゃん(無意識にタメ口)。そういうとき、なんだかはらわたがちぢこまる気分になる。怒りとは違うのだが、なんだかはらわたがちぢこまる気分。もっというとなんか得体のしれない暴力的なものに直面してしまったような気分。「仕事と私、どっちが大事なの!?」と問われた時のような。問われたことないけど。そんな気分になっている時点で私は「(何かに)失格」なのだろう。

 Count me out.
 
 ほなね。

 参考文献

2014年2月24日月曜日

(the)beds 『washing life one』

(the)bedsの新しいアルバム『washing life one』のレコ発ライブに行ってきました。

会場は池袋adm。ひさびさに行きましたが、表からは「スタ丼」の店にしか見えなかった(以前はHip Hop洋品店だったような記憶)。なんかこういう店舗構造、「アジアやな~」って感じ。イケブクロのこういう怪しげなところが大好物です。

入ると関谷謙太郎氏のライブ中。実はUNDER THE COUNTERの時にシブヤネで一回だけタイバンさせてもらったことがあります。今回がUTC解散以来初のライブとのこと。相変わらず力強い歌声で、かっこよかった。

二番手は我らが兄貴ノリさん率いるtape me wonder。新曲を多数投入してくるチャレンジングなステージ。特にできたてホヤホヤという新曲「バンドワゴン」から90sオルタナ魂をビンビンに感じました。気合いが入っていたなー。ノリさんはどんなライブでも絶対に「置きに行かない」。音楽を楽しみながら常に「勝負」を挑むスタイルがかっこいいと思う。

そして(the)beds。アルバムに収録された新曲を中心に構成されたライブでした。驚いたのはブービーの歌の表現力が激増していたこと。これは良いボーカル!リズム隊もタイトで心地いい。メロディの良さはもちろん展開やアレンジのひねくれっぷりも悔しいぐらいツボを押してきやがる。あ、サポートギターのハタキチ氏(from 宇宙遊泳)もビシバシと「ずるいフレーズ」をキメててずるかった。




すごくいいライブだった。

その音楽性と人柄から、先輩後輩問わず、バンドマン界隈から常に愛され続けている(the)beds。メジャーで「ガツガツ」行くタイプのバンドではないかもしれないけど、いい意味で「インディーズバンドとしての自由」を謳歌しながら、素晴らしくひねくれた音楽を紡いでいます。

聞けばもう結成10年目なんですね。何気にベテランじゃん。

これからも「自由」を感じさせる曲をたくさん作り続けてほしいです。

おめでとう(the)beds!

2014年2月18日火曜日

人:Jim Breuer

 YouTube漂流してて行き当たったメタリカの「MTV ICON」セレモニーで、とあるコメディアンがジェイムズ・ヘットフィールドのモノマネ(ジェイムズが「絶対言わなそうなこと」を物まねで言う←日本でもホリさんのネタにこういうのあったな)をしていた。それがとても上手で面白かったので、気になっていろいろYouTubeで検索しているうちにハマった。
 彼の名はJim Breuer。日本では全然聞かない名前なので、何とお読みすればよいのか。たぶん「ジム・ブリュアー」さんとか「ジム・ブルーアー」さんとかだと思う。
 さっそくアメリカ人の友人に聞いてみたところ、この方、90年代に「サタデーナイトライブ」で有名になり、その後何本か映画に出ていたとのこと。
 さらなる独自調査によると、98年に同じくコメディアンのデイブ・シャペル(ミシェル・ゴンドリー監督『ブロック・パーティー』でおなじみ)と『Half Baked』というマリファナ万歳映画に出ていたようです。そんな映画知らないぞー。日本未公開ですよね当然。
 とまあ、その経歴からも分かるように以前はかなり過激なネタで人気を得ていたみたいなんだが、最近はメタルや自分の家族をネタにしたギャグでお茶の間ウケしはじめているみたい。
 とにかく、「メタルモノマネ」のクオリティが高い。「もしもメタリカが『ビンゴの歌』を歌ったら・・・」、「もしもオジーが『ロンドン橋』を歌ったら・・・」みたいな「メタルもしもシリーズ」が十八番みたいなんだけど、その「細かすぎて伝わらない感」がとても面白い。たとえメタルを知らなくても、なんだかよくわからないハイテンションに思わず笑ってしまうことうけあい。
 あと、「自分の家族モノマネ」が最高。究極の身内ネタだけど、これがなぜか笑える。妻のモノマネとか、「あ~、こういう“妻”いそー!」って感じで。
 ひさびさに気になる人が現れちゃいました。日本でも有名にならないかな。無理か。


ご本人(メタリカさんご一行)を目の前にモノマネパフォーマンス。強心臓。もしもジェイムズが「幸せなら手をたたこう」(If you're happy and you know it)を歌ったら・・・。最後にジェイムズ本人が「俺ってあんなか?・・・まあ、そうだよな」(意訳)と言ってます。


メタルで子供の歌を歌うシリーズ。AC/DC最高!



二日酔いのJimさんを子が襲撃。途中で「妻のモノマネ」が出てくる。



空港の近くに住むと・・・。爆音の声帯模写がすごい。お母さんのモノマネあり。

 

2014年1月27日月曜日

映画:Sign Of The Times

吉祥寺バウスシアターで見てきました。前売り券でな!(特典バッジ付き)

<激短!あらすじジェネレーション>
プリンスの円熟期に行われた『Sign Of The Times』ツアーを映像作品化。

プリンスの最高傑作との呼び声も高い名盤『Sign Of The Times』(1987年作品。通算9枚目)。

前作『Parade』に伴うツアー終了後、バックバンドThe Revolutionを解散させたプリンスが、たった1人で作り上げたとされるアルバムです。ファンク、ロック、ポップ、ジャズ、ソウル、テクノ、ゴスペルなどさまざまジャンルのサウンドを飲みこみ、プリンス流にアウトプットした「極私的サウンドタペストリー」。どこかしらデモ音源ぽい質感が、送り手と聞き手の距離を縮める役割を果たしていて、この作品はしばしば「密室的」と評されたりもします。

この「送り手と聞き手の濃密な距離感」が、「ハマる人にはハマる」要因となっていて、僕も「プリンスの最高傑作は?」と聞かれたら迷わずこのアルバムを挙げます。

ここからは少し自分語りになりますが。

僕は中学生の時このアルバムをレンタルで借りてきて聞き、まさに雷に打たれたような衝撃を受けました。

音数を極力抑えたアレンジ、それでいて強烈なファンクネス、奇天烈なシンセ音、シャウトし、囁き、喘ぐ、変幻自在のボーカル…。中学生ですから、歌詞の意味なんかよく分からなかったのですが、「これ絶対エロいこと歌ってる!」みたいな雰囲気があったりするかと思えば、なにかとんでもなく崇高な瞬間みたいなものを(言葉ではなく)「音楽的に」感じ取ることができたりもして。表裏一体の「性」と「聖」の福音のような。なんだかこのアルバムを聞いていること自体、悪いことをしているような、背徳的な感覚。(プリンスの初期~中期のアルバムはほとんどそうですが)

…とにかくこのアルバムの凄さをいまだにうまく言語化できないんですが、言語化できないからこその良さって絶対あると思うんですよ!(開き直り)…とにかく聞いてみてください。

余談:中学時代、この興奮を共有したい!と、『Sign Of The Times』を録音したテープを親しい友達に貸したところ、「声が小さい」という感想とともに返してきたので、「分かってねえ!!!」と思いっきりディスったことがあるんですが、たしかにこのアルバム、「音圧」には乏しいです。(・・・そこがいいんじゃない!)

そんな(どんな)アルバム『Sign Of The Times』に伴うヨーロッパツアーと、プリンスの所有スタジオであるミネアポリスにある「ペイズリーパーク」で収録したライブ映像を中心に、曲間に寸劇などを挟んで編集して映像作品化したのがこの映画版『Sign Of The Times』です。日本初公開は89年ですが、今回リマスター処理を施され25年ぶりのリバイバル上映と相成ったわけです。祝。

また自分の話で恐縮ですが、高校生の時、一度だけ深夜にテレビ放映されたこの映画。初めて見たとき、アルバムを聞いて思い描いていた世界観が見事に映像化されていてびっくりした覚えがあります。この映画を見ることで、アルバムの『Sign Of The Times』の世界を補完できるというか、映画とアルバムのセットで『Sign Of The Times』だと思いますのでアルバム持っていて、映画を見ていない人がいたら今からでも見た方がいいですよ。必修。さて内容の方。

プリンス印のイミフな寸劇から、ディストーションギターが轟き1曲目「Sign Of The Times」。2曲目「Play In The Sunshine」でアッパーに客を盛り上げ、間に「Little Red Corvette」のひとくだりを挟んで超ド級ファンク「Housequake」!で序盤からエクスタシー!

この流れは過去にビデオで何度も何度も暇さえあれば見ていたので、歌詞、セリフ、コールアンドレスポンスなど完璧に頭に入っていましたが、今回初めて高画質、高音質、大音量、という環境での観賞がかない、今までとはまったく違ったフレッシュな感動を得ることができました。正直、私、この流れで落涙いたしました。は~あ~~感動~~。(細川たかし)
個人的に、この映画のクライマックスはこの冒頭4曲だといっても過言ではないんじゃないかと思ってます。

もちろん他にも見どころはたくさんあります。「I Could Never Take The Place Of Your Man」のクサいけど切ない男女のストーリー(音楽のライブで物語を紡ぐってすごいな)、「Hot Thing」でのキャット(ダンサー)との濃密なカラミ(必殺「スライディングスカート剥ぎ」!)、「Now's The Time」でのシーラ・Eの超絶ドラムソロ、プリンスの股割り(上半身が全くブレない。どんな体幹しとんだ!)、プリンスのギター、プリンスのドラム、プリンスのドヤ顔、プリンスのメガネ、プリンスのGジャン、プリンスの肩パット、プリンスの警察帽、などなど…数えればキリがありません。

『Sign Of The Times』は、1人のアーティストの絶頂の瞬間をとらえた最高の音楽映画と言って間違いないと思います。

でも、僕はこの『Sign Of The Times』というアルバムや映画を聞いたり見たりするといつも、興奮すると同時に少し寂しい気持ちにもなるのです。それはこの作品にどことなく「別れ」の雰囲気が漂っているからなのかもしれません。

このアルバムの後、プリンスは『Black Album』という「邪」や「俗」に振り切ったドス黒いファンクアルバムを作成、そのあまりの毒性に恐れをなし自らお蔵入りにしたのち、今度は「聖」に振り切った名作『Lovesexy』を発表します。プリンスの音楽的な才能という意味では『Lovesexy』とそれに伴うツアーで一旦ひと区切りがつきます(異論はたくさんあると思いますが)。

1990年前後、ニュージャックスウィングやヒップホップなどブラックミュージックのシーンにも新しい風が吹き始め、プリンスはそういったジャンルにも通じるようなよりポップでアップトゥデイトな方向に舵を切り、それと同時に初期~中期作品に必ず纏わりついていた「背徳感」が薄れていくようになるのです。

『Sign Of The Times』はそんな「初期衝動との別れ」を予兆するムードというか、「終わりの始まり」の切なさのようなものを湛えています。そしてそのことがこの映画とアルバムをより味わい深いものにしているように思うんですよね。(つってもプリンス、今も現役バリバリなんですが!)

「楽しい!」「凄い!」だけでは終わらない、多面的な魅力にあふれた不思議な作品です。
今回の仕様でのBlu-ray発売を熱望します!





2014年1月20日月曜日

映画:トゥモロー・ワールド

『ゼロ・グラビティ』のアルフォンソ・キュアロン監督の前作。
先日試しに登録してみたHuluで見ました。

<激短!あらすじディストピア>
2027年、謎の不妊現象で子供が誕生しなくなり、荒廃しっぱなしの世界。オレは突然レジスタンスから妊婦の護送を頼まれた!(なぜか軽薄な紹介文)

 「『ブレード・ランナー』とか『トータル・リコール』とか、フィリップ・K・ディック原作の有名どころの映画や小説をそれなりに楽しんだ」程度にしかSFになじみのない私。基本的に「近未来SF」ってのを好んで見るタイプではないのです。
 SFって一見現実離れしたそのストーリーに、人間の持つ普遍的な問題だったり、現代社会への批判だったりを読みこんで味わうところに楽しみがあるんだと思うんだけど(違うのかな?)、そういう現実的な問題は、物語で語られるよりルポやドキュメントで「今そこにある危機」として読んだり見たりしたいナー、など身も蓋もないことを思ってしまうのであって。まあ、もちろんそれも表現方法次第なんですけど・・・。そういう意味で『クロニクル』なんかは語り方が画期的だなーと思った次第。
 斯様に残念なSF弱者であるからして「奇跡的に妊娠した女性をめぐって敵と味方が入り乱れ・・・」という展開も「ふ~ん」てなもんで、ストーリーそれ自体にはさほど没入できなかった。だって、「そんな大事な人をなぜわざわざ危険にさらすようなことする!」とか思っちゃって。すみません無粋で。そもそも「子供が生まれなくなった世界で、自暴自棄になっている人類」っていう物語の設定から飲みこめなくて・・・。「自暴自棄はよくないよ!」とか「そんな世界ならなおさら、全人類全力で妊婦を守りなさいよ!」とか普通に思ったりして。や、「人間は愚かだから本当に大事なことを見失い、争いを繰り返してしまう・・・」っていうことを教えてくれてるんでしょうけどね・・・。

 知ってるよ!

 ・・・。しかしながら映像の方はさすが『ゼロ・グラビティ』で完全に観客(俺)をノックアウトしたキュアロン監督。この映画でも「どうやって撮ってんだこれ??」という長回しの連続。全編通しての緊張感は並々ならぬものがあった。
 途中、とても感動的なシーンがあるのだけど、「こっちの息が切れるのが早いか、カットが変わるのが早いか」って感じの長回し。監督が挑みかかってきているかのようだった。ここは素直にノックアウト(何回ノックアウトされてんだっていう)。

 「長回しは監督と観客の勝負だ」と思いましたね。

 長回しって観点だと最近の映画では『SR3』のクライマックスシーンなんかを思い出したけど、入江監督、この映画に影響受けてるのだろうか。

 これ、映画館で見られればよかったなあ。基本的に全ての映画についてそうなんだけども。

 クライヴ・オーウェンは少しデッカード(ハリソン・フォード)に似てると思った。


2014年1月17日金曜日

本:夜露死苦現代詩 (ちくま文庫)

 老人ホームの住人たちのうわごと、死刑囚の俳句、精神を患った人がノンストップで書き綴る言葉、暴走族の特攻服やヤンキーの学ランに刺しゅうされたポエム、NASやJAY-Zのリリック、はたまた相田みつをの書(!)などを取り上げ、そこに「詩情(ポエジー)」を見出していく、言ってみれば「物好き」な本。
 下手すると「変わったご趣味ですね」なんて言われそうな作業。しかし、「精神病院」だからって、「ヤンキー」だからって、「エロサイト」だからって、「相田みつを」だからって、関係ない。言葉に貴賎なしという著者の都築さんの態度に寛容さを感じる。都築さんはこの作業をハイカルチャーとしての詩(現代詩)に対してのアンチテーゼと位置づけているのだと思う。もっと下世話に。もっと馬鹿に。もっとエロく。もっと国道沿いに。(よくわからんけど)
 これらのことばたちのなんとリアルなこと。いや、無菌化された「リアル」なんて言葉より、「生生しい」と言った方が近いかもしれない。じっとり湿って、微生物が繁殖してそうな「生」の質感(「死」を目前にした老人たちや死刑囚の言葉ですら!←いや、「だからこそ」か)。
 巻末の谷川俊太郎氏との対談にもあったように、本来、この本で挙げられたことばたちを、所謂ジャンルとしての「現代詩」と比較・対象化すること自体が筋違いで、一種のアウトサイダーアートとして観賞すべきものなのかもしれない。そうなってくるともうあとは単純に「好き嫌い」になってしまうのだが、下世話で、生々しく、ばかばかしく思えるようなこれらの言葉たちが、少なくとも自分には「高尚(そう)な、なにか」よりも断然愛おしく思えた。
 いまの自分にはどうひっくりかえってもこんなことばは紡げそうにない。(あたりまえだ)





映画:ゼロ・グラビティ

立川CINEMA TWOで、3D字幕版を見てきました。

いきなりですが、3D映画って400円かそこら高くつくじゃないですか。 この映画の場合だったら、「1800円(一般料金)+400円(3D料金)=2200円」もかかるわけですよ。高けえよと。そんなに払えるかよと。そんな風に思う御仁もいらっしゃると思うんですよね。ミズシマ、そんな高い金払って見たのかよと。お前、いろいろ入り用なんじゃねえのかよと。お前、そんなに金持ってねえじゃねえかよと。馬鹿じゃねえのかよと。(このくだりもういい) 

しかしそこは立川シネマシティ会員、通称「シネマシティズン」であるところの私。なんと「1000円(平日会員料金)+400円(3D料金)=1400円」で見れるんですねー。普通の映画の一般料金(1800円)より安いっていうね。どうゆうことだこれ。根っからの文系なもんで、数字にはてんで弱いのですが、あからさまに得であることだけはわかります。

理不尽にお得な立川シネマシティの会員制度「シネマシティズン」。
みんなもシティズンになればいいと思います。シティズンて。

で『ゼロ・グラビティ』。

 <激短!あらすじギャラクシー>
宇宙に放り出されたサンドラ・ブロック、地球に戻れるのか?(もしくは宇宙版『スピード』)

とても面白かったです。 お話はシンプルきわまりなく、上の「あらすじギャラクシー」(恥)に書いたまんまです。サンドラ・ブロック演じるアメリカの宇宙船乗組員が船外作業中に宇宙ゴミの飛来による事故で母船を失って、宇宙空間にぽーんと放り出されてしまいます。さあ、彼女は生き延びることができるのか…?書いただけでも背筋が凍るようなお話です。 

見たことのない映像のつるべ打ち(not 鶴瓶)でした。とにかく無重力の表現がすごいです。文系なんで(今回二度目のエクスキューズ)詳しいことはよくわかりませんが、これはもう「宇宙、だいたいあんな感じでOK」なんじゃないですか。ちょっと押されると延々と動き続けてしまうとか、ぐるぐるまわっちゃうとか、基本的な部分は多分あってますよ多分。こういう映画ってあまり細かくリアリティを追求し始めると、とたんにつまんなくなるんで、「宇宙、だいたいあんな感じでOK」でいいんじゃないでしょうかね。宇宙での「音」表現もまたしかり。この映画での音といえば通信音、呼吸音、鼓動、がメイン。その他は衝撃音(これもまたどこを伝って聞こえてくる音なのか、リアリティ的には謎でしたが)と要所要所の効果音ぐらい。この音数の少なさがリアリティなんだろうなあと。宇宙行ったことないけど。こういうことは詳しくはうちの合田君に聞くといいと思います。

無重力を描写した映画といえば過去にも『2001年宇宙の旅』はじめいろいろありますけど、「無限の宇宙に放り出されたときの恐怖」をこんなにリアルに(ってほとんどの人が経験したことないんだけど)描いた映画って他にあるんでしょうか。ただただ孤独です。宇宙こええ。

その上、予想もつかないアクシデントがつぎつぎと主人公を襲います。絶体絶命の瞬間が何度も訪れ、その度に見てるこっちは体に力が入って「ふん!」とか「うん!」とか唸りながら見ることになります。(注:俺だけかも)
かつてさまざまな映画で、さまざまなヒーローたちが絶体絶命のピンチを間一髪でかいくぐり、大逆転を成し遂げてきましたが、この映画に関しては、さすがにもう逆転の望みなんてないんじゃないかと何度も思わされます。だってここは宇宙ですし。放り出されてますし。助けなどいないですし。通信途絶えてますし。その都度その都度の「オワタ…」感は半端なかったです。 

途中、サンドラ・ブロック演じるライアン博士の語られざる過去が明かされながら、「あきらめる/あきらめない」の選択になっていくあたり、見方によっては「え?ここでベタ展開に?」と一瞬思ったりもしましたが、状況が状況だけに、ベタだとかベタじゃないとかどうでもいいわ!「がんばれブロック!」(誤った呼称)と思いました。 

宇宙の美しさと恐ろしさをこれでもかと叩きつけられる91分。「一体全体どうやって撮影してるの?」っていうシーンが満載で、新鮮な緊張感がずっと持続します。つまり面白いです。

話の本筋以外にもいろいろ考えたことがありまして。 

まず、ことの発端となった「宇宙ゴミ」の原因が「ロシアが自国の衛星を”用済み”として撃ち落とした結果」であったり(すげーことするな)、中国の衛星が「得体の知れない救世主」として存在していたりと、各国の宇宙船の存在が世界情勢をうっすら暗示している気がしないでもないんじゃないかなーみたいな深読みもできなくもないかなーみたいな感じでした。(断言を避けすぎ)
それとこの映画、もちろんフィクションではあるんですが、これだけリアリティを追求している風でありながら、どの時代を描いたのかは正確には語られていなかったり(たぶん。会話の内容から1996年以降であることだけはわかるけど)、ご都合主義的な展開がないこともなかったり、ラストにちょっとだけ「?」な余韻を残すところがあったりと、「もしかしてファンタジー?」と思わせる要素があるのが気になりました。

あと、見てみて初めて知ったのですが、この映画、原題は『Gravity』(重力)なんですね。なぜ邦題を『ゼロ・グラビティ』(無重力)にしたのか、意図はわかりかねますが、ラストまで見ると原題の意味がまさにのしかかってくるような仕組みになっていました(だから原題のままでよかったのでは…)。 

とにかく。映画として面白いことはもちろんですが、「体験」として味わっておくべき娯楽作品なんじゃないかなーと思いました。もう一回IMAXで見たいなーとか思ってます。川崎行くしかないか。

 あばよ!(唐突)

映画:かぐや姫の物語

かんぷーふきすさぶなか、立川シネマシティで見てきました。

<激短!あらすじ絵巻>
『竹取物語』、アニメ化(雑な紹介)

ずぶん(唐突な「あまロス」)、「ラピュタ」をいまだに見たことがないことを理由に、一部の人たちから「非国民」として迫害を受けているほどの「ジブリ弱者」なんですが(世にはびこる「ジブリ同調圧力」にSAY NO!)、今年は夏に『風立ちぬ』を見ましたし(←良かった)、自分としては例年より多くジブリに触れた年となりましたどういう導入だよこれ。

で、この作品。一言で言えば、昔話『竹取物語』を忠実にアニメ化した作品と言えると思います。とはいえそもそも『竹取物語』ってどんな話だったっけ…と、映画を見た後復習してしまったんですが。wiki師匠によるあらすじ


まず分かりやすく惹きつけられたのはアニメーションの美しさ。
水彩画っぽいラフな絵が生き生きと動いているさまに驚きました。特に冒頭のかぐや姫の赤ちゃん期における「はいはい→たちあがる→歩く」の流れをシームレスに描いたシーンや、中盤の「かぐや姫、失意の暴走」シーンは圧巻でした。とにかく絵がすごいので、これだけでも見る価値あると思います。

で、内容のほう。話の筋はなんとはなしに知っていましたが、後味は予想してたよりビターでした。

原作では客観的に語られていた(であろう)かぐや姫本人の心情が、この映画では「あのとき姫はこんな気持ちだったんだよ」って感じでビビッドに表現されていて、昔話が原作とはいえ新鮮な気持ちで見ることができました。

しかしながら、僕はこの映画を見ている間、姫以上に、じいさんの方、つまり竹取の翁のことが気になってしかたがありませんでした。

かぐや姫を授かった竹取の翁は、姫のあまりの美しさや、姫が来てからのツキの良さ(竹切ったら金が出てくるとか)といった要因から、「親のエゴ」を盛大に発揮。一家で村から都へ移住して、姫を「高貴な姫君」として育てる決心をします。村の子供たちのリーダー的存在「捨丸兄ちゃん」はじめ、地元の仲間たちと共に元気にのびのびと暮らしていた姫の人生が、ここから狂い始めます。

姫の地上での苦悩の発端となったこの翁、悪い人では全然ないんですけど、というかむしろいい人で、よく言えば「ピュア」なんでしょうけど・・・まあストレートすぎるほどにストレートに言っちゃうと無知というか浅慮というか、「思いこんだら一直線」で、自分の信じたことに1ミリも疑いを持たない「他者不在な感じ」が、見ていてなんとも居心地の悪い気持ちになりました。人の幸せを願うあまり、その人を縛り付けていることに気付いていないんですよね。「もっと多様性を認めてあげて!」と思いましたが、まあ時代的に「多様性ってなあに」という社会なのでしょう。村出身でありながらも都に執着する感じとかも含め、意外と現代にも通じるリアルなところを突いているような気もしました。

そしてこの翁のエゴは、かぐや姫が月(天上界)という穢れのない世界に生まれながらも「とり、むし、けもの、くさき、はな」の世界、つまり地球や村という、「穢れの世界」で暮らすことを強く望んだこと(いってみればこれもエゴ)との対比になっているのかなーと思いました。

「姫の犯した罪と罰」(この映画のキャッチコピー)ならぬ、「翁の犯した罪と罰」があるとすれば、罪は都へ移住しステータスを求めたこと、罰はその結果、かぐや姫を失うことでしょう。ちなみに、都で5人の高貴な求婚者たちが姫から「私と結婚したければ財宝を取ってこい!」と難題を吹っかけられるも、姫欲しさにズルや無茶をしてそれぞれしっぺ返しを受けるエピソードも同じように、「エゴの末路」の切り口で語ることができそうです。

というわけで、この映画は(というか『竹取物語』は?)あらゆる「ないものねだり」にまつわる因果応報の話と言えるのかもしれません。ただ、よく考えると、姫の憧憬の対象たる「捨丸兄ちゃん」だけが「ないものねだり」の報いを受けていないような気がするのですが…それは考察の余地を残すところでしょう。(投げっぱなし)

片側から見たら不浄に見える場所かもしれないが、片側から見ればそここそが生きる場所であるとか、そこで生きることを望んで何が悪いのだろうとか、しかしながらここで言う天上界みたいな「圧倒的な世界」がときに強制的に執行する力(それは場合によっては「暴力」と言い換えられるかもしれない)には、結局は抗えないのねという無常感とか、「出自」の持つ宿命性とか、「意外とこの話、深い!」と思いました(馬鹿の感想)。

あとは、山村の職人たちの描写が面白かったり、宴のシーンで都の人々が動く図が「なんか昔教科書で見たことあるような有名な絵」を元にしてるような気がしないでもなかったり(曖昧すぎ)と、民俗学的な視点からも楽しめそうな感じでした(適当)。

あ、あと。最後の最後、ちょっと『2001年宇宙の旅』のラストっぽかったよね?(賛同者求む)

とりとめなし。

以上!
かぐや姫の物語の場面カット画像


映画:ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD 1987

イオンシネマ板橋(東武練馬)にて『ベイビー大丈夫かっ BEATCHILD 1987』を、後輩の国松と小関と見に行きました(分かる人にしか分からない実名)。

男3人で練馬のイオンのエスカレーターを上がっている時、「地元の友達かよ!」と思いました。

<激短!あらすじダンスホール>
最悪のフェスで、最高のパフォーマンスをしたアーティストと、とても頑張ったお客さんたちの記録。

1987年、当時の日本のロックシーンを牽引するアーティストを集め、熊本の阿蘇で開催された野外フェス「BeatChild1987」の模様を収めたドキュメンタリー映画です。
出演はブルーハーツ、RED WARRIORS、岡村ちゃん、白井貴子、ストリートスライダーズ、渡辺美里、尾崎豊、HOUND DOG、BOOWY、佐野元春など。

このフェスがあったこと自体は、実はうっすら覚えているような気がしないでもないです(年バレ)。特にあのロゴ、なんか見覚えあるんだよな。。
ちなみにこの前後にあった「広島平和コンサート」(?)っていうのは結構覚えてます。
岡村ちゃんと尾崎が『Young Oh! Oh!』いっしょに歌ってたやつ。その映像があったので貼っときます。これ↓

  

なんでしょう、胸がしめつけられますね。

で、この「BeatChild」(涙をぬぐいながら)、夕方18時のスタートから翌日午前6時のエンディングまで、豪雨と雷にさらされ続けたことで「伝説」になったフェスなんだそうです。
集まった観客はなんと公称7万2000人(見た感じ実際そんなにいたようには思いませんでしたが…)。
当然今の日本のようにフェス文化が根付く前。「ロックに悪天候対策など不要」とでも思っていたのか、ほとんどの観客が軽装で参加。豪雨と雷の中、お目当ての大好きなアーティストのライブを体感するために、みなさんぐしょぐしょになりながらがんばっていらっしゃいました。泣

僕も悪天候で「伝説」扱いされている1997年の第一回のフジロックに行った経験があるんですけど、あのときはレッチリ、レイジ、フーファイなど錚々たるメンツを前にTシャツにGパンといった山の天気を完全にナメ切ったカジュアルな格好のオーディエンスに台風が直撃、皆、死ぬ思いをしてました。
「“死ぬ思いした”とか大げさじゃね?」と思われる方もいらっしゃるかもしれないんで、具体的に言いますと、雨具なしで山で豪雨を浴び続けていると、体温が下がってきて、眠くなってくるんですよ。本当に気を付けてください。

しかし、なぜ1997年の僕たちはその10年前の「BeatChild」から何も学ばなかったのでしょうか。なんか自分たちが残念です…。こんなことだから戦争もなくならないのだろう(飛躍)。

さて内容ですが、個人的には若かりしころ(たぶん20歳)の岡村ちゃんの「漲りすぎ」のパフォーマンスを大画面で見られただけでも、この映画を見た甲斐がありました。RED WARRIORSのSHAKEさんと楽屋で話している岡村ちゃんが最高に初々しかったです。

他にもブルーハーツの陽性のバイブス、今と全然変わってないダイヤモンド☆ユカイ、白井貴子の怯え→決意への瞬間(感動的)、スライダーズのマイペースぶり、スクリーモミュージシャン尾崎渾身のグロウル、立てた髪が雨で完全に寝てしまっているBOOWY(布袋のさらさらヘア―)、神がかり的に歌がうまかった渡辺美里、大友康平の見た目、佐野元春の堂々たるステージングなど…。

どのアーティストのライブも見どころが盛りだくさんで大満足でした。

なんていうか、変な意味じゃなくて、音楽的には今ほど「(カッコつきの)成熟」しておらず、「あこがれの洋楽」を無邪気に追いかけていた「キラキラした瞬間」みたいなものが切り取られていて、とてもいい時代だったんだなー(バブル的な意味ではなく)と思いました。

とても貴重な映像を見せていただきました……

が。

この映画。

ナレーションに相当問題アリで。

「豪雨…だが、中止はありえない」とかいきなり理不尽な宣言をするナレーション。
「魂が…足元に…」とか急にスピリチュアルなことを言い出すナレーション。
「ロックの神様は不平等だ…」とか急に「やれやれ感」を出してカッコつけるナレーション。

死者が出てもおかしくなかった(500人が倒れ、病院や緊急の救護室に運ばれたそうです)このイベントを反省し、次につなげていくような第三者的視点が一切なく、ただただ饒舌に、陶酔しながら、過去の悲劇を「伝説」の名のもとに美化していました。

脱力~。

いや、こういった類いのドキュメンタリー(的な)映画が完全に公正で、客観的視点のもとに描かれるべきだ、なんて考えは私には毛頭ありませんよ。ドキュメンタリーとて多分に作り手の主観が入り込む物ですし(Ⓒ森達也)、むしろその方が自然だと思いますし。

まあとにかく今回はそこから発せられる送り手の思想が自分とあわなかっただけという話です。すみません。

このナレーション以外にも、この映画の自己完結ぶりに脱力した箇所がたくさんありましたが、なんか…めんどいので割愛します。書くほどのことでもないし。

アーティストたちのパフォーマンスが素晴らしかっただけにこの点はとても残念でした。

「“伝説”も濫用に注意でござるよにんにん」と思いました。

「でも、アーティストとオーディエンスに罪はないよな!」

と気持ちをポジティブに奮い立たせ、練馬の焼き鳥屋さんで国松と小関(分かる人にしか分からない実名)と飲んで帰りました。焼き鳥おいしかったです。