2015年6月10日水曜日

7月1日

昨年(2014年)7月の集団的自衛権行使容認の閣議決定がどうしても納得いかなかったのか、そのとき感じたことを思うさま書きなぐったはいいが、自己検閲にひっかかりアップしないまま1年間下書きに入っていました。昨今の日本を取り巻く状況ともリンクする話なので、せっかくなので下書きから公開に昇格しときますです。ところどころリンクが切れていたりします。

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7月1日、集団的自衛権の行使容認を実現するべく、憲法解釈変更の閣議決定がなされました。政府はこれからこの解釈変更に基づいて、武力行使に関する様々な法律を整備していくでしょう。

この日を忘れないように、そして自分の考えを整理するために、この記事を書いています。大きく分けて「まず違憲な件」「国民の理解」「抑止力への疑問」「反対の表明方法」の4本でーす。

(1)まず違憲な件
まず日本国憲法に集団的自衛権行使を認めるような規定がないだけでなく、今回の決定は手続きの面でも問題があります。もし憲法を改正したいのなら政府は日本国憲法第96条にのっとり正当な手続きを踏まなくてはいけません。憲法を改正するのではなく「憲法の解釈」を変更し、またそれを国民に是非を問わず、「閣議決定」という形で承認するという今回の手法ははっきりと「違憲(憲法違反)」であり、憲法が権力を縛るという、立憲主義に反します。集団的自衛権の行使容認が違憲であるということになれば、今後集団的自衛権の行使に関連する国内外のトラブルで日本が訴訟を起こされた場合、莫大な損害賠償責任を負わなければならなくなります。

しかしなぜこんなに早く決めてしまったのでしょうか。憲法改正を発議し、国会で与野党が時間をかけて様々な議論を尽くすことが、結果として「国民の理解」へのひとつの道であるように思えます。しかし今回の「閣議決定」に至るまで、憲法解釈変更についての与党協議なる会議が「11回、計13時間」しか行われていないとのことです。これは回数としてはあまりにも少なく、時間としてはあまりに短いと言わざるを得ません。もちろんそこに民意は反映されていません。憲法を変える、という国家にとって重大な作業を拙速かつ密室的に行えば、国民の内閣への不信感は当然高まる…ぐらいは考えればすぐに分かりそうなものですが。今回の早急さは「国民の理解」を得る「戦略」としてうまくないと思いました。(ちなみに、憲法96条にのっとって憲法改正をする際行う「国民投票」の規定を定めた「国民投票法」という法律は、「第一次安倍内閣」(2006-2007)が憲法を変えたい一心でたくさんの批判を浴びながら成立させたものです。せっかく作ったこの法律、なんで使おうとしないんでしょう?)

(2)国民の理解
次にその「国民の理解」についてです。安倍総理は5月15日に団的自衛権の妥当性を国民に説明するための記者会見を行いました。そこで総理は集団的自衛権行使の事例を図解した「パネル」を使用していましたが、これらの事例は、集団的自衛権というより「個別的自衛権」と、「国連の集団安全保障の規定」で説明がつくものでした。奇妙な設定で説明しようとしたり、「日本人の親子のイラスト」を使い情に訴えてミスリードを誘うような場面があったりと、この会見自体の正当性に疑問を抱かざるを得ません。

ちなみにこの件が「国民の理解」を得られているのかどうか参考までに世論調査をみていくと毎日新聞が6月27、28日に行った全国世論調査では「政府が近く集団的自衛権の行使を容認する方針となったこと」について、「反対」が58%で、「賛成」が32%。日本経済新聞社とテレビ東京が27~29日に行った世論調査では「集団的自衛権を使えるようにすべきだ」との回答は34%で、「使えるようにすべきではない」は50%。だそうです。一方、産経新聞社とFNN(フジニュースネットワーク)が6月28、29日に実施した世論調査では、「集団的自衛権について全面的に使えるようにすべきだ」が11.1%、「必要最小限度で使えるようにすべきだ」が52.6%になり、合わせて63.7%が行使を容認しているそうです。

この調査母体によるブレというか、偏り。国民の理解を得られているととらえるか、得られていないととらえるか。僕にはブレがあること自体が理解を得られていないことの証左のように思えるのですがいかがでしょう。


(3)抑止力への疑問
と、ここまで手続きのまずさを書いてきましたが、ここからは、仮に手続きが正当であったとして、集団的自衛権の行使容認は本当に妥当なのかどうかを考えてみたいと思います。

この件で僕が覚える最大の違和感は「抑止力」というロジックです。

総理はじめ与党のみなさんは、集団的自衛権を行使できる状態にしておくことが日本への攻撃を思いとどまらせるのだ、という論理で集団的自衛権の行使を容認すべきだと言います。

今の国際情勢において軍事的な「抑止力」と言った場合、当然最終的に「核兵器」を意味すると思うんですが(そのレベルの武力がないと抑止にならないという意味です)、非核三原則を遵守する限り日本は核兵器を保有できず、集団的自衛権の行使のみが「抑止力」を持つというロジックはなかなかに厳しいものがあるように思います。反論として「日本はアメリカの“核の傘”入っているのだから、日本が核兵器を持たずとも抑止力はあるのだ」と言うのであれば、それはいままでの日米安全保障そのものですので、「抑止力」のための集団的自衛権は必要ないという話になりませんか。

・・・う~ん。

百歩譲って核兵器を持たない軍隊(自衛隊)のみで「抑止力」たりえると考えるとしても、そのときはもちろん軍備を拡張しなくてはいけません。そしてまさかいまのままの自衛隊で敵国の「ガチ軍隊」に勝てるわけはないでしょうから、今以上に実戦仕様の過酷なトレーニングプログラムが必要になるでしょう。「集団的自衛権発動!」とかっこよく飛び出したはいいがフルボッコにされて帰ってきたら(帰ってこれたらまだいい方ですが)元も子もないわけで、要は自衛隊を「勝てる軍隊」にしなければいけません。そうすると、そこには莫大な金銭的および人的コストが必要になり、安倍総理の掲げる他の政策、例えば成長戦力や震災復興などに割くコストは自ずと削られていくことでしょう。ましてや「女性が輝く世界」とかそういうのはどんどん後回しになったりするでしょう。話がそれましたが。(補足しておくと、いまでも自衛隊のみなさんはものすごく過酷な訓練をされているということは存じています。そしてその活動に敬意を抱いています)

話を戻すと、抑止力を有効にするためには敵国と同等かそれ以上の武力を持たなければなりません。敵国が軍備を増強したらこちらもそれに合わせて増強・・・と力のインフレが起こり最後には必ず「核には核」という話になります。振り上げた拳の下ろしどころを見失い「すわ核戦争」・・・というのは、まんま冷戦時のキューバ危機ではないですか。この状態をして果たして「抑止」と呼んでいいのか、僕には甚だ疑問です。

それと、素朴な疑問として、集団的自衛権は同盟国(この場合アメリカでいいでしょう)への攻撃をトリガーにした、(日本の)武力行使の権利のはずです。「アメリカが攻撃された場合、(攻撃をされていない)日本がその反撃に加勢しますよ」というお話が、なぜ「日本への攻撃の抑止力」とか「自国の防衛」とかいう話になるのか、いままで納得のいく説明を聞いたことがありません(聞いたことがないだけかもしれませんごめんなさい。また僕の理解力不足であればそれもごめんなさい)。そもそも「日本を攻撃から守るための武力行使」であれば、大抵は「個別的自衛権」で対応できますし、集団的自衛権によるアメリカとの強固なつながりを対外的にアピールすることにより、日本がテロ攻撃の対象になるリスクが高まるのは想像に難くありません。僕にはこれは「抑止」というよりむしろ「危険への露出」に思えてなりません。

というわけで、「抑止力」というのは様々なパラメータがあり、やる前から「これは抑止力となります!」ときっぱり宣言できる代物ではないのではないかと思っています。

(4)反対の表明方法
長くなってしまいました。

最後に今回の件に関しての「反対の表明方法」について書きたいと思います。

今回の決定に「日本を戦争のできる国にするな!」「子供を戦争に行かせたくない!」といった感情的な物言いやましてや「安倍総理は独裁者!ファシスト!」などの中傷をもって反対意見を表明しても(それがたとえどんなに真摯で的を射た訴えだとしても)、残念ながら効果は期待できないように思います。そのような主張をしたところで、


と言われて終了です。
国民の「不安」は、「誤解」であると一蹴されてしまっているのです。

これで「僕たち私たちの不安は“誤解”だったんだ!な~んだ、よかった。集団的自衛権賛成ー!」となれればいいのですが、ここで思い出さなければいけないのはこれはあくまで憲法解釈変更の閣議決定であり、憲法96条に定められた憲法改正手続きではないという点です。

※ちなみに総理はこの後次のように述べています。「日本国憲法が許すのは、あくまで我が国の存立を全うし国民を守るための自衛の措置だけだ。外国の防衛を目的とする武力行使は今後とも行わない。万全の備えをすること自体が、抑止力だ。今回の閣議決定で、日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなる」・・・。一応すべてにリアクションをつけておきます。「日本国憲法が許すのは、あくまで我が国の存立を全うし国民を守るための自衛の措置だけ」であれば個別的自衛権の範囲内ですし、「外国の防衛を目的とする武力行使は今後とも行わない」のなら集団的自衛権はいりません。「万全の備えをすること自体が、抑止力」か、どうかはわかりません、そうかもしれません、なんともいえません。ちなみに核は持つのでしょうか?最後「今回の閣議決定で、日本が戦争に巻き込まれる恐れは一層なくなる」・・・「論理の飛躍」という言葉が頭をよぎりました。

おかしい」「不安」だという気持ちを「誤解だ」とあしらわれ、いくら声を張り上げても決して取り合ってもらえない・・・。これはまるでディストピアです

そんな状況下で、我々は一体何をすればいいのでしょうか。デモ、音楽、踊り、…さまざまな手段で政府にやり方のおかしさを訴えていきたいところです。がしかしこんな風に感情を無下にする現政府に残念ながらポエジー(詩情)に共鳴する感受性はなさそうです。

感情が無効化された状況で我々に残された「反対意見の表明方法」は、「問題点を仔細に見て論理のほころびを逐一指摘し続けることではないでしょうか。論理的な思考で反対の言い分に説得力を持たせるのです相手がおよそ論理的とは程遠いように思えるのに、なぜこちらが・・・と憤ったりもしますが、それは置きます)

平和を希求し、戦争というオプションを本気で捨てたいと願う人々は今、感情以外の表現を持つ必要に迫られているのだと思いますそのためにはたぶん、勉強をしなければいけませんし、自分の頭で考えなければいけませんし、自分の意見を自分の言葉で言ってみなければいけません(この記事はその試みの一環です)議論を交わすなかで違う意見を持つ人からこてんぱんにやられることもあるでしょうし、到底受け入れ難い相手の言い分を理解しようと努力することも必要になるでしょう。

しかしそうやって我々がたくわえた知識やデータは、例えばデモなどの抗議行動で、次の選挙で、憲法改正の国民投票で、違憲訴訟で、必ず生かされると思います。それぞれのシーンで、その知識をもって冷静に判断を下し、一体どちらが「感情論」なのか、どちらが「ファンタジー」を抱いているのかを証明していくのです。

いやだからいやなんだ!」という駄々っ子のような態度は、あちらの「やりたいからやるんだ!」という態度とあまり変わりません。逆説的ですが、感情を自由に発露し、いやなものはいやだ、と自由に声を上げられ、それに「聞く耳をもってもらえる」社会を実現するためには、それなりの努力をしなければいけないのかなと思っています。めんどくさいです。極めてめんどくさいですが。

日本という国のあり方がいままでとは変わってしまった以上、自分たちも変わらなければいけない局面に来ているということなのだと思います。

では。

2014年6月5日木曜日

映画:アクト・オブ・キリング

~前回までのあらすじ~
小学5年生の水島少年は父親がレンタルで借りてきた『ゆきゆきて神軍』をなんとなく流れで一緒に見てしまい、トラウマを抱えることになるが…!

こんにちは!!!涙

シアター・イメージフォーラムで見てきました。(『ゆきゆきて神軍』ではなく)

<激短!あらすじ諸島>
60年代にインドネシアで起きた共産主義者大量虐殺の「加害者」たちに、当時の殺戮行為を再現した映画を作らせ、その制作の過程をフィルムに収めた世にも恐ろしいドキュメンタリー。

まずインドネシアでこのような事件があったこと自体知らなかった。

一説によると犠牲者は100万人以上にも及んだそうです。そしてさらに驚くのはインドネシアでは今でも反共が国是とされており、この大量虐殺が正当化されているということ。そしてこの虐殺に加担した人たちは何の罪にも問われずいまも生きていて、さらには「国民的英雄」扱いすらされているということ。


・・・心が歪んでいる私としては、まずこの前提に「ミスリーディング」があるんじゃないかな?と思ってしまいました。というか、あってほしいと思ってしまいました。

というのも、インドネシアの国民がこんなに悲惨な大量殺戮の加害者を心の底から英雄として称えている、なんてこと、到底信じられないからです。 表向きは諂っていても、心の中では舌を出しているに決まってます。しかもインドネシアと一言に言っても、ものすごくたくさんの島で構成されている国ですし、地域差もかなりあると思います。「国民的英雄」という触れ込みがどこまで正しいかわかったものじゃないです。

・・・と、こんな甘ったれた思いを抱かずにはいられないほど、この(カッコつきの)「事実」は、僕にとって受け入れがたいものでした。ゆえに、僕はこの映画を「性善フィルター」(人は生まれながらにして善きものである)をかけて見ることになってしまいました。ショックを未然に防ぐ自衛本能でしょうか…。

するとやはり加害グループ「パンチャシラ青年団」の前で、一般人はどこか怯えた表情をしていて(その表情は完全にチンピラに絡まれたときのそれです)、これが彼らを「英雄視」するまなざしと言えるのか甚だ疑問に思いました。

そしてもちろん、この映画の主人公アンワルさんをはじめとする「大量殺戮を行った側」の人物からは、自分たちの罪に最初から気付いているような表情や発言をすくい取ることができます。自責の念に苛まれながら虚勢を張っているというしんどさ…。
この加害者たちはひょっとしてインドネシアで「国民的英雄」ではなく、「裸の王様」のように扱われているんじゃないか?とすら思いました。

フィルターをかけて見てしまったので「見たいものしか見ていない」と言われればそれまでですが、この一般の人々の「怯え」や加害者の「自責の念」こそ、このドキュメンタリーが捉えた多面体の一面であることは確かだと思います。(事実はもっともっと多面的なのだろうけど)
しかし、この「性善フィルター」のおかげで、ラストの展開にあまり意外性を感じなくなってしまったのは惜しいところです。(馬鹿)

あるシーンがとても印象に残っています。

とある地方で議員選挙に立候補した「パンチャシラ青年団」所属の男が選挙活動で挨拶まわりをするんですが、市民たちはその男に「平然と」賄賂をねだるのです。十分な賄賂を持たないその男は結局落選してしまいます。
このシーン、映画の中ではわりと「笑える」箇所として機能していたようですが、この地域の「腐敗感」を少なからず感じてなんだかすごくダークな気持ちになりました。

共産主義を排除しておきながら、だからといって民主的でもなく、地域に根差したプリミティブな秩序があるのみ。これは中東の民主化運動が軒並み壁にぶつかっているのにも通じる難しい問題です。人は「慣れ親しんだ環境」という「慣性」を失いたくないものなのだなーと思って、本筋とは別の部分で絶望的になりました。(まあそれを一言で「腐敗」と言うのも語弊があるとは思うんですが)

「善悪の区別がつかなくなる」とはよく言うけれど、そもそも善と悪とはそこまできれいさっぱり切り離せるものではなく、善悪どちらにもどちらかの要素がしみ出しているからこそ厄介。
さらに「善悪」とは別の地平に「慣性」というパラメーターの存在が。個人レベルの問題が政治性を帯びて集団の論理になったとき、さらに問題は複雑化して…。

しんどいわ。人間。

では!



2014年3月28日金曜日

映画:ザ・ロイヤル・テネンバウムズ

Huluで観賞。
ウェス・アンダーソン監督作品。

Huluの無料お試し期間が終わり、課金がはじまっているので、何か見なきゃもったいなかったので見ました。(最低な態度)

~激短!あらすじ家族~
「放蕩親父」ロイヤルが、おちぶれたテネンバウム家の再生を企てるが…。

なんかオシャレでした。

ウェス・アンダーソンの絡んだ映画は、いままで彼が制作に携わった『イカとクジラ』(ノア・バームバック監督)くらいしか見たことがありませんでした。『イカとクジラ』は「崩壊寸前の家族や夫婦」を描いているという点ではこの『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』とある種共通したテーマを持つ作品で、個人的にはかなり好きな作品です。オススメ。

で『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』。父ロイヤルは奔放な性格で家族とともに過ごす時間がほとんどない。天才劇作家、天才ビジネスマン、天才テニスプレーヤーとして若くして成功した3人の子供たちも今や落ちぶれてしまっていて、さえない日々。母には別の男性とのロマンスが。そんな感じで一家は離散状態になってしまっている、ってことになってるのですが、その親父の放蕩っぷりや、子供3人の落ちぶれっぷりがそんなに「酷すぎない」というかポップでオシャレに描かれているもんだから、あんまりリアルに感じられなかったです。

一家がバラバラになっているのも子供たちがそれぞれ好きなことをやっていった結果みたいにしか思えなかった。それを「再生」すると言われましてもみたいな。

音楽の使い方は素晴らしくて、絵作りも計算されている感じがして、アーティスティックだねスタイリッシュだねという感じだったのですが、どうにもお話にエモーションが足りなくて、のめり込めませんでした。すみません。どうしよう結果的にほめてない!

公開当時(2002年だそうです)結構話題になってたし評価も高かった気がするんだけどなあー。

養女(とされている?←ここ、なんかグレーじゃなかったです?)マーゴ(グィネス・パルトロウ)と二男リッチー(ルーク・ウィルソン←オーウェン・ウィルソンの弟)のエピソードは良かったと思いました。

ひとつ言えるとするなら「才能みたいな“元から備わったもの”で物事をうまく回していけるのはある時期まで」みたいなことは感じました。だから努力が必要だし、変化を受け入れ、折り合いをつけ、前に進んでいくことが大切なんですね。何事も。

うーんなんというか…、僕、こっちより『イカとクジラ』の方が好きです。比べるもんでもないと思うんですが。『イカとクジラ』の方が「寂しさ」や「妬み」などといったどうにもやっかいな心の問題を、抑制のきいた演出で鋭く描きだしていて、痛くて切なくて面白いです。

『イカとクジラ』おすすめです!

では!(なんだこれ)



2014年3月13日木曜日

ブラックオアホワイト

 何か世間を騒がすようなニュースが報じられると、「~は悪い」とか「~は悪くない」とか、「“どちらか片方”についた意見」が飛び交うじゃん。(のっけからタメ口)  
 善か悪か真か偽か白か黒か糾弾か擁護か…って、ほんとに二択しかないんでしょうか。物事ってそんなに単純なのでしょうか。といつも思ってしまう。  
 二元論って、物事を「わかりやすく」するための例え話のようなものでしかないと思っていまして(「世界を二分したら俺は圧倒的にディカプリオ似」とか)。それを日々直面する全ての事象に適用してしまうのはすごく味気ないし危険なことかもしれないなあと思ったりもしていまして。ていうか、無理。全部に適用するのは無理じゃんそもそも(気を許してついタメ口)。だって、いざ自分自身のことになればみんなそんなに割り切って話できないと思うんだけれども。自分にしか分からない自分の心の襞みたいなものがあるわけで。なのになぜか自分以外の第三者や身の回り「以外」の出来事に言及する時に善悪二元論みたいなものが首をもたげてくるっていう。
 その「二項」の間に「考え中」とか「迷い中」があってもいいじゃないって思う。ていうか、あるべき。いや、もちろんあることはあるのだが、そういう曖昧なものは「わかりやすくない」ので表層に出にくい(議論として弱い)のであり、出たら出たで「曖昧なもの」として「糾弾」の憂き目にあったり「なきものにされたり」するという仕組みなのでR。
  わかりやすくて、「いいね!」なのはいつも、残念ながら「白か黒か」の論理だったりしてそれがなんかやるせない。  
 
 やるせません。YARUSEMASEN。  

 余談だが、いま「やるせません」と書いていて「笑ゥせぇるすまん」に空目した。
 商売でも表現活動でも、よく「売りを一言で言うと?」とか、「もっとわかりやすく」とか言われるじゃん(無意識にタメ口)。そういうとき、なんだかはらわたがちぢこまる気分になる。怒りとは違うのだが、なんだかはらわたがちぢこまる気分。もっというとなんか得体のしれない暴力的なものに直面してしまったような気分。「仕事と私、どっちが大事なの!?」と問われた時のような。問われたことないけど。そんな気分になっている時点で私は「(何かに)失格」なのだろう。

 Count me out.
 
 ほなね。

 参考文献

2014年2月24日月曜日

(the)beds 『washing life one』

(the)bedsの新しいアルバム『washing life one』のレコ発ライブに行ってきました。

会場は池袋adm。ひさびさに行きましたが、表からは「スタ丼」の店にしか見えなかった(以前はHip Hop洋品店だったような記憶)。なんかこういう店舗構造、「アジアやな~」って感じ。イケブクロのこういう怪しげなところが大好物です。

入ると関谷謙太郎氏のライブ中。実はUNDER THE COUNTERの時にシブヤネで一回だけタイバンさせてもらったことがあります。今回がUTC解散以来初のライブとのこと。相変わらず力強い歌声で、かっこよかった。

二番手は我らが兄貴ノリさん率いるtape me wonder。新曲を多数投入してくるチャレンジングなステージ。特にできたてホヤホヤという新曲「バンドワゴン」から90sオルタナ魂をビンビンに感じました。気合いが入っていたなー。ノリさんはどんなライブでも絶対に「置きに行かない」。音楽を楽しみながら常に「勝負」を挑むスタイルがかっこいいと思う。

そして(the)beds。アルバムに収録された新曲を中心に構成されたライブでした。驚いたのはブービーの歌の表現力が激増していたこと。これは良いボーカル!リズム隊もタイトで心地いい。メロディの良さはもちろん展開やアレンジのひねくれっぷりも悔しいぐらいツボを押してきやがる。あ、サポートギターのハタキチ氏(from 宇宙遊泳)もビシバシと「ずるいフレーズ」をキメててずるかった。




すごくいいライブだった。

その音楽性と人柄から、先輩後輩問わず、バンドマン界隈から常に愛され続けている(the)beds。メジャーで「ガツガツ」行くタイプのバンドではないかもしれないけど、いい意味で「インディーズバンドとしての自由」を謳歌しながら、素晴らしくひねくれた音楽を紡いでいます。

聞けばもう結成10年目なんですね。何気にベテランじゃん。

これからも「自由」を感じさせる曲をたくさん作り続けてほしいです。

おめでとう(the)beds!

2014年2月18日火曜日

人:Jim Breuer

 YouTube漂流してて行き当たったメタリカの「MTV ICON」セレモニーで、とあるコメディアンがジェイムズ・ヘットフィールドのモノマネ(ジェイムズが「絶対言わなそうなこと」を物まねで言う←日本でもホリさんのネタにこういうのあったな)をしていた。それがとても上手で面白かったので、気になっていろいろYouTubeで検索しているうちにハマった。
 彼の名はJim Breuer。日本では全然聞かない名前なので、何とお読みすればよいのか。たぶん「ジム・ブリュアー」さんとか「ジム・ブルーアー」さんとかだと思う。
 さっそくアメリカ人の友人に聞いてみたところ、この方、90年代に「サタデーナイトライブ」で有名になり、その後何本か映画に出ていたとのこと。
 さらなる独自調査によると、98年に同じくコメディアンのデイブ・シャペル(ミシェル・ゴンドリー監督『ブロック・パーティー』でおなじみ)と『Half Baked』というマリファナ万歳映画に出ていたようです。そんな映画知らないぞー。日本未公開ですよね当然。
 とまあ、その経歴からも分かるように以前はかなり過激なネタで人気を得ていたみたいなんだが、最近はメタルや自分の家族をネタにしたギャグでお茶の間ウケしはじめているみたい。
 とにかく、「メタルモノマネ」のクオリティが高い。「もしもメタリカが『ビンゴの歌』を歌ったら・・・」、「もしもオジーが『ロンドン橋』を歌ったら・・・」みたいな「メタルもしもシリーズ」が十八番みたいなんだけど、その「細かすぎて伝わらない感」がとても面白い。たとえメタルを知らなくても、なんだかよくわからないハイテンションに思わず笑ってしまうことうけあい。
 あと、「自分の家族モノマネ」が最高。究極の身内ネタだけど、これがなぜか笑える。妻のモノマネとか、「あ~、こういう“妻”いそー!」って感じで。
 ひさびさに気になる人が現れちゃいました。日本でも有名にならないかな。無理か。


ご本人(メタリカさんご一行)を目の前にモノマネパフォーマンス。強心臓。もしもジェイムズが「幸せなら手をたたこう」(If you're happy and you know it)を歌ったら・・・。最後にジェイムズ本人が「俺ってあんなか?・・・まあ、そうだよな」(意訳)と言ってます。


メタルで子供の歌を歌うシリーズ。AC/DC最高!



二日酔いのJimさんを子が襲撃。途中で「妻のモノマネ」が出てくる。



空港の近くに住むと・・・。爆音の声帯模写がすごい。お母さんのモノマネあり。

 

2014年1月27日月曜日

映画:Sign Of The Times

吉祥寺バウスシアターで見てきました。前売り券でな!(特典バッジ付き)

<激短!あらすじジェネレーション>
プリンスの円熟期に行われた『Sign Of The Times』ツアーを映像作品化。

プリンスの最高傑作との呼び声も高い名盤『Sign Of The Times』(1987年作品。通算9枚目)。

前作『Parade』に伴うツアー終了後、バックバンドThe Revolutionを解散させたプリンスが、たった1人で作り上げたとされるアルバムです。ファンク、ロック、ポップ、ジャズ、ソウル、テクノ、ゴスペルなどさまざまジャンルのサウンドを飲みこみ、プリンス流にアウトプットした「極私的サウンドタペストリー」。どこかしらデモ音源ぽい質感が、送り手と聞き手の距離を縮める役割を果たしていて、この作品はしばしば「密室的」と評されたりもします。

この「送り手と聞き手の濃密な距離感」が、「ハマる人にはハマる」要因となっていて、僕も「プリンスの最高傑作は?」と聞かれたら迷わずこのアルバムを挙げます。

ここからは少し自分語りになりますが。

僕は中学生の時このアルバムをレンタルで借りてきて聞き、まさに雷に打たれたような衝撃を受けました。

音数を極力抑えたアレンジ、それでいて強烈なファンクネス、奇天烈なシンセ音、シャウトし、囁き、喘ぐ、変幻自在のボーカル…。中学生ですから、歌詞の意味なんかよく分からなかったのですが、「これ絶対エロいこと歌ってる!」みたいな雰囲気があったりするかと思えば、なにかとんでもなく崇高な瞬間みたいなものを(言葉ではなく)「音楽的に」感じ取ることができたりもして。表裏一体の「性」と「聖」の福音のような。なんだかこのアルバムを聞いていること自体、悪いことをしているような、背徳的な感覚。(プリンスの初期~中期のアルバムはほとんどそうですが)

…とにかくこのアルバムの凄さをいまだにうまく言語化できないんですが、言語化できないからこその良さって絶対あると思うんですよ!(開き直り)…とにかく聞いてみてください。

余談:中学時代、この興奮を共有したい!と、『Sign Of The Times』を録音したテープを親しい友達に貸したところ、「声が小さい」という感想とともに返してきたので、「分かってねえ!!!」と思いっきりディスったことがあるんですが、たしかにこのアルバム、「音圧」には乏しいです。(・・・そこがいいんじゃない!)

そんな(どんな)アルバム『Sign Of The Times』に伴うヨーロッパツアーと、プリンスの所有スタジオであるミネアポリスにある「ペイズリーパーク」で収録したライブ映像を中心に、曲間に寸劇などを挟んで編集して映像作品化したのがこの映画版『Sign Of The Times』です。日本初公開は89年ですが、今回リマスター処理を施され25年ぶりのリバイバル上映と相成ったわけです。祝。

また自分の話で恐縮ですが、高校生の時、一度だけ深夜にテレビ放映されたこの映画。初めて見たとき、アルバムを聞いて思い描いていた世界観が見事に映像化されていてびっくりした覚えがあります。この映画を見ることで、アルバムの『Sign Of The Times』の世界を補完できるというか、映画とアルバムのセットで『Sign Of The Times』だと思いますのでアルバム持っていて、映画を見ていない人がいたら今からでも見た方がいいですよ。必修。さて内容の方。

プリンス印のイミフな寸劇から、ディストーションギターが轟き1曲目「Sign Of The Times」。2曲目「Play In The Sunshine」でアッパーに客を盛り上げ、間に「Little Red Corvette」のひとくだりを挟んで超ド級ファンク「Housequake」!で序盤からエクスタシー!

この流れは過去にビデオで何度も何度も暇さえあれば見ていたので、歌詞、セリフ、コールアンドレスポンスなど完璧に頭に入っていましたが、今回初めて高画質、高音質、大音量、という環境での観賞がかない、今までとはまったく違ったフレッシュな感動を得ることができました。正直、私、この流れで落涙いたしました。は~あ~~感動~~。(細川たかし)
個人的に、この映画のクライマックスはこの冒頭4曲だといっても過言ではないんじゃないかと思ってます。

もちろん他にも見どころはたくさんあります。「I Could Never Take The Place Of Your Man」のクサいけど切ない男女のストーリー(音楽のライブで物語を紡ぐってすごいな)、「Hot Thing」でのキャット(ダンサー)との濃密なカラミ(必殺「スライディングスカート剥ぎ」!)、「Now's The Time」でのシーラ・Eの超絶ドラムソロ、プリンスの股割り(上半身が全くブレない。どんな体幹しとんだ!)、プリンスのギター、プリンスのドラム、プリンスのドヤ顔、プリンスのメガネ、プリンスのGジャン、プリンスの肩パット、プリンスの警察帽、などなど…数えればキリがありません。

『Sign Of The Times』は、1人のアーティストの絶頂の瞬間をとらえた最高の音楽映画と言って間違いないと思います。

でも、僕はこの『Sign Of The Times』というアルバムや映画を聞いたり見たりするといつも、興奮すると同時に少し寂しい気持ちにもなるのです。それはこの作品にどことなく「別れ」の雰囲気が漂っているからなのかもしれません。

このアルバムの後、プリンスは『Black Album』という「邪」や「俗」に振り切ったドス黒いファンクアルバムを作成、そのあまりの毒性に恐れをなし自らお蔵入りにしたのち、今度は「聖」に振り切った名作『Lovesexy』を発表します。プリンスの音楽的な才能という意味では『Lovesexy』とそれに伴うツアーで一旦ひと区切りがつきます(異論はたくさんあると思いますが)。

1990年前後、ニュージャックスウィングやヒップホップなどブラックミュージックのシーンにも新しい風が吹き始め、プリンスはそういったジャンルにも通じるようなよりポップでアップトゥデイトな方向に舵を切り、それと同時に初期~中期作品に必ず纏わりついていた「背徳感」が薄れていくようになるのです。

『Sign Of The Times』はそんな「初期衝動との別れ」を予兆するムードというか、「終わりの始まり」の切なさのようなものを湛えています。そしてそのことがこの映画とアルバムをより味わい深いものにしているように思うんですよね。(つってもプリンス、今も現役バリバリなんですが!)

「楽しい!」「凄い!」だけでは終わらない、多面的な魅力にあふれた不思議な作品です。
今回の仕様でのBlu-ray発売を熱望します!